【富嶽三十六景】 その3
解説は高橋誠一郎氏の文を引用しました
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No,19 東海道 程ヶ谷 
「保土ヶ谷」は、東海道の神奈川と戸塚の中間の古駅で、今は横浜市に編入されている。比較的東京に近い東海道の宿駅のなかで、浮世絵師の筆に残る面影をもっとも多く保存しているのは、保土ヶ谷辺だといっていたが、今はこの図のような疎らな細い松並木の間から遠く富士を望む景色は全くみられなくなった。四つ手駕籠をおろして頭の汗を拭う駕籠屋、草鞋の紐を結び直す相棒、腕組みして考えこんでいる客人。軽尻馬の上の饅頭笠の旅人は馬と同じように首を落とし、風景を見ようともしない。毎日この辺りを上り下りしている馬子が富士をみている。行き違った白小袖に丸ぐけの帯を締め、荷を背負った虚無僧は深編笠をかかげて行く手をみる。こうした長閑な往来は昔の夢と消えて、自動車の疾送する東海道となった。北斎の画には、とかくこけ威しや、貼ったりが多いと言われているが、この「程ヶ谷」は、何の奇を求めず、ただ松並木の街道を行く当時最も多く見かける人物を描いたもので、好感がもてる。私たちは、この図によって、今は全く滅び去った文政時代の街道風景をしのぶことができる。
No,20 相州 七里濱 
鎌倉の稲村ヶ崎から西の方、腰越しの小動(こゆるぎ)の巌にいたる関東道六丁一里で数えた相模湾に臨む「沙(すな)深くして脛を没す」といわれた海浜七里ヶ浜から、西に富士を望んだ図である。東の空には入道雲が現れているが、海はまだ荒れていない。右手には丘陵起伏し、左手には江ノ島が浮かんでいる。応永、宝徳の頃この浜辺で行われた惨憺たる戦いも遠い昔の夢と消えて、 波は静かに海岸の砂にたわむれちる。現在の海水浴の雑踏など当時の人達の夢想もしなかったところであろう。
No,21 神奈川沖 浪裏 
この図を見て、今の横浜の神奈川沖で、こんな大きな浪の打つことがあるだろうかと疑う。実に奇抜な構図である。本図は「凱風快晴」「山下白雨」と並んで、最も評判高いものである。この図は欧米人が絶賛し、特に愛好するものであるが、わが国の評論家の中には、これを北斎の詩嚢が枯渇した晩年の悪作の代表的なものと見る向きもある。褒貶いずれにせよ、いやしくも浮世絵を論じる者の必ず触れなければならない作品である。
 幾分代赭色を帯びた空(この空の赤みは刷によって濃淡の差がかなりある)には白雲が盛り上がり、風は激しい。くずれる波頭、散る浪の花。三隻の船は今にも波に呑まれそうだ。すべては動いている。その中に只波間に遠く、やや暮れかかった空を背にはっきりと見える富士だけが、静止している。しかし船中の人の感覚では、いちばん激しく上下に動揺しているものは富士であるかも知れない。
No,22 相州 江の島 
この図は、何のハッタリもなく、当時の江ノ島の実景を忠実に写したものである。ただ下部に描かれた霞の北斎の手段が認められる。富士は実際より左手に寄り過ぎているとも言われている。この図のできた頃は片瀬海岸からの桟橋連絡の便宜はなく、退潮時には砂浜伝いに徒歩で渡ることができたが、潮が満ちれば、渡し舟または、人の背を借りなければならなかった。本図は、丁度、汐の干た時で、二〜三人連れで歩行する様が小さく描かれている。島のとっつきには大きな石灯篭が立っている。そこから江ノ島神社に通じる急な階段になる。両側には家屋が立ち並ぶ。神社は、一宮、二宮、三宮に分れる。杉山惣検校が建てた三重の塔が聳えている。
江島は欽明天王の十三年四月十二日戌の刻(午後八時)奇瑞によって海上に湧出したものと伝えられている。また、古、鎌倉と武蔵のくらき(久良岐)の間に深沢という湖があって、ここに悪竜が住み、神武から垂仁まで700年間、人民を苦しめたが、景行天皇の代に、弁財天女が天降してこの悪竜に向かい、この国の守護神となって国土を守護したという。今、江島神社の宝物に、豊満な裸身の弁財天女像がある。
No,23 相州 仲原 
富士の裾を覆い隠している丘陵は未だ深緑だが、近くの田圃は黄色く秋の色に変わっている。小川に架けた板橋、頭上に弁当を載せ、右手に持った鍬の柄の先には大薬缶をかけて、悠然と橋を渡る農家の女房。ややおくれて廻国の親子。橋下には魚をあさる男。天秤棒をかついだのは行商人らしい。 寂しげに水面をみる行者。版元永壽堂西村屋与八の標印。川端には鳥追いの鳴子が張られ、橋畔には疵(傷)だらけの石碑が侘しげに立っている。
仲原(中原)は、東海道平塚の宿を北に半里のところにある。平塚市に合併された。天正十八年、家康関東入部の頃、ここに放鷹を試みたという。仲原は町奉行に任命され、市街開拓に当った内藤修理亮清成に与えられた邑(村)であった。彼は賜邑の当時、中原に家康放鷹の舎宅を造営した。中原御殿と呼ばれたものであるが、その後廃されて、北斎が本図を製作した頃は、もう跡形もなくなっていたであろう。
No,24 相州 梅沢左 
梅沢は大磯と小田原の間の宿である。いにしえ、この辺りには梅の木が多かったので、この名が生じたといわれている。 「旅衣 春待つ心替わらねば きくもなつかし梅沢の里」という古歌も伝わっている。今では神奈川県二宮町の一部になっている。この辺には横穴が多くある。吾妻神社は日本武尊の妃、弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)を祭ったものだろうと言われている。上宮は比売の櫛の流れついたもの、下宮は衣の漂いきたものをまつったと伝えられている。
「梅沢左」は「梅沢庄」の彫り誤りだと見られている。「梅沢在」の彫りそこねとも考えられる。この図には街道の宿場もなく、ただ鶴か鴻かの群れ遊ぶ丘陵の風景を描いたものであるから、梅沢の里から奥へ入り込んだ辺りを写したものの様なので、「在」と読んだ方が良いようにも思われる。版画には、彫り誤りがかなり多くある。それはさて置き、本図は実に清々しい感じを見る人に与える。明けたばかりの早朝の景色であろうか。
No,25 相州 箱根湖水
箱根湖(葦の湖)は富士八湖の一で、箱根山上の火口原湖である。徳川幕府が元和四年来、湖畔に関所を設けて厳重に通行往来を改めたことから、「真樹のたつ荒山中に海なして、水ももらさぬ箱根路の関」とうたわれた。しかし、この湖から漏れた水の一部は早川となって相模湾へ出、他の一部は湖尻峠の下をくぐり、疎水となって駿河の国に落ちる。
「東路の 箱根の山の 湛ふる海は 黒き海に……」という加茂真淵の歌を年頭に浮かべると、芦ノ湖の光景は暗澹たるものを思わせるが、本図は極めて晴朗である。水も空も蒼く澄み草が緑に萌えている山々には諸所に老杉が聳えたっている。杉の立木に囲まれた箱根権現の本社とその末社。湖の西の深淵に頭が九つある毒竜がいて、時々風波を起し、人々を悩ましたのを、当社権現の中祖満巻上人がこの淵に臨んで神咒したので、その後は水上に現れる事がなくなったという。毒竜は湖中の大樹に繋がれて、永くこの山の守護神となる。この樹は栴檀(せんだん)香水といって、今なお湖中にあると伝えられる。こんな神秘な物語の片影もこの図からは窺うことができない。
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